長かった中学受験生活が終わった。
長かった。正直、かなりしんどかった。親子でぶつかることもあったし、もう無理かもしれないと思った日も一度や二度ではない。それでも最後は合格という形で一区切りがつき、ようやく終わったという安堵があった。
「これでしばらくは勉強から解放される」
そう思っていた。親としても、本人としても、ようやく次の春からは新しい学校生活に慣れていくことだけを考えればいいのだと、どこかで勝手に思い込んでいた。
だが、その感覚は入学説明会の日に一瞬で打ち砕かれた。
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入学説明会の校門前にあった「次の戦場」
春の空気の中、家族で向かった入学説明会。新しい制服、新しい通学、新しい友達。子どもにとっては、期待のほうが大きい一日だったと思う。
ところが、校門前には別の熱気があった。
有名大学受験塾のビラ配り部隊がずらりと並び、次々に資料を渡している。
あまりに有名な光景なので、進学校の世界では珍しくもないのかもしれない。だが、親としてはかなり衝撃があった。
「えっ、中学入学の説明会なのに、もう大学受験の話なのか」
受験が終わったばかりなのに、もう次の受験の入口に立たされている。そのことに軽くめまいがした。
子ども本人は、そんなことは気にも留めていない。配られた紙の束を持ちながら、これから始まる学校生活への期待でいっぱいという顔をしている。
一方で親の頭には、別の計算が始まる。
私立の学費。定期代。部活や学校生活にかかる費用。そこに加えて、もし外部塾まで当然のように入るのだとしたら、その固定費は6年間でどれだけ膨らむのか。
中学受験は終わったのに、教育費という意味ではまったく終わっていない。むしろ、ここからが本番なのだと突きつけられたような感覚だった。
「塾は不要」と「半数近くが通塾」の矛盾
説明会の壇上で、学校側は力強くこう言っていた。
「塾は基本不要です。必要なことは学校の授業でしっかり教えます」
これはきれいごとではなく、教育方針としては極めてまっとうだと思う。学校の授業と課題、日々の学習で十分に力をつけられるなら、それが本来のあるべき姿だ。
だが、現実にはそう言われる学校ほど、同時に外部塾へ流れていく生徒も多い。
この矛盾は何なのか。
学校が嘘をついているという話ではない。塾に行かなくてもやれる子は実際にいる。学校の授業だけで十分に伸びる子もいる。
それでも、親は不安になる。
周囲が入るなら、うちも入れたほうがいいのではないか。入らないことで出遅れるのではないか。中学で一度つまずいたら、その後ずっと浮上できないのではないか。
この不安が、塾不要という建前と、実際の大量通塾を両立させている。
深海魚は、誰かが悪いから生まれるわけではない
進学校の世界には「深海魚」という言葉がある。成績下位に沈み、なかなか浮上できない生徒を指す隠語だ。
この言葉は少し残酷だが、構造自体はとても単純だ。
どれだけ優秀な集団でも、順位は必ずつく。上位がいるなら下位もいる。全員が地元では神童だったとしても、同じ学校に集められれば、その中でまた序列が生まれる。
つまり、深海魚は本人が怠けているから生まれるのではない。親の育て方が悪いからでもない。極端に言えば、ハイレベルな集団を作った時点で、構造的に必ず発生するものだ。
この現実を受け止めないまま、「うちの子だけは大丈夫」と思うのも危ういし、「深海魚になったら人生終わり」と思い込むのも危うい。
問題は、親がこの構造を理解せず、不安だけで意思決定してしまうことだと思う。
親の不安は、市場になる
進学校の校門前で配られる塾のビラは、単なる広告ではない。
あれは親の不安に向けた極めて精度の高い提案だ。
うちの子はこの学校でやっていけるのか。成績下位に沈まないか。大学受験で置いていかれないか。
その不安に対して、「今のうちに備えておきませんか」と差し出されるのが外部塾だ。
言い方は少し悪いが、これはかなり保険商品に近い。
もちろん、塾そのものを否定したいわけではない。必要な子には必要だし、そこで大きく伸びる子もいる。ただ、親が認識しておくべきなのは、これは教育方針の選択であると同時に、不安に課金する意思決定でもあるということだ。
「みんな行っているから」ではなく、「何を避けるために行くのか」を言語化しないと、費用も時間もどこまでも膨らんでいく。
深海魚になった人の人生は、本当に失敗なのか
ここで、どうしても思い出す実例がある。
私の周りには、地方のトップ中高一貫校に進学し、その中では見事に深海魚になった同級生がいた。本人にとっては相当つらかったと思う。「こんな学校に行くんじゃなかった」とこぼすほど、強い挫折感があった。
最終的に彼は地方国立大学へ進学した。
いわゆる東大・医学部至上主義の価値観で見れば、それは負けのように見えるのかもしれない。超進学校に入って、その進路なのか、と冷笑する人もいるだろう。
でも、今の彼の人生を見ていると、そんな単純な話では全くない。
家庭を持ち、子どもに恵まれ、多少の不器用さはありながらも、地に足のついた生活をしている。派手さはないが、精神的には安定していて、「あれはあれで良かったよな」と笑いながら過去を振り返れるだけの強さがある。
進学校での順位と、人生の幸福度は一致しない。これはきれいごとではなく、現実にそうだと思う。
塾漬けでなくても伸びる人は伸びる
逆のパターンもある。
同じく地方トップ校から、研究職のような知的専門職に進んだ同級生がいる。彼は中高時代、ずっと塾漬けだったわけではない。むしろ、自分の好きなことにのめり込んでいた印象のほうが強い。
必要以上に管理されるでもなく、常に最適化されるでもなく、自分の興味関心を軸に中高時代を過ごしていた。そして高校3年のタイミングで一気に集中し、難関大学へと進学していった。
このタイプを見ていると、理Ⅲや超上位医学部のような特殊な世界を除けば、中1から高3まで6年間ずっと受験モードを維持し続けることが、すべての子に必要なわけではないと実感する。
むしろ、自分の内側から湧いてくる興味や没頭の感覚を持てることのほうが、長い目で見れば強いのではないかと思う。
学校内順位と社会での価値は一致しない
さらに言えば、首都圏の最難関校で成績下位だった層が、その後有名私立大学に進学し、社会に出てから普通に活躍している例も珍しくない。
学生時代は「どうしようもないやつだな」と周囲にいじられていたような人でも、社会に出ればしぶとく生き、気づけば年収1000万円クラスで普通に暮らしていたりする。
もちろん、全員がそうなるわけではない。だが少なくとも、学校の中での立ち位置だけで、その人の将来価値が決まるわけではない。
むしろ、ハイレベルな集団の中で一度揉まれた経験や、自分よりすごい人間がいくらでもいるという現実を知った経験のほうが、その後の人生で効いてくることもある。
では、最初から附属校でよかったのか
ここで出てくるのが、「そんなに大学受験をガツガツやらせたくないなら、最初から附属校や、もっと穏やかなルートを選べばよかったのではないか」という問いだ。
これはたしかに合理的な意見だと思う。
大学までの接続が見えている学校なら、早い段階から受験競争に追い立てられずに済む。部活や趣味に時間を使いやすいし、親も塾のことでここまで不安にならなくて済むかもしれない。
コスパだけを考えれば、十分に魅力的な選択肢だ。
それでも私は、超進学校の価値は単なる大学進学実績だけではないと思っている。
超進学校の価値は、挫折を知ることにもある
全国から集まったツワモノや天才、異様なまでに何かに没頭できるオタク、自分の理解を軽々と追い越していく人たち。そういう人間を日常的に見る環境は、やはり特殊だ。
そこで得られるものは、優越感ではない。むしろ逆だ。
「上には上がいる」
「自分は思ったほど特別ではない」
「努力しても埋まらない差が現実に存在する」
そういう事実を、逃げずに受け止める経験だと思う。
これは結構しんどい。人によっては大きな挫折になる。
だが、その経験を通過した人間には、変な万能感が削がれ、環境に対する耐性がつく。どこに行っても自分よりすごい人間はいるし、その中でどう折り合いをつけて生きていくかを考えられるようになる。
私は、この感覚は社会に出てからかなり大事だと思っている。
最短距離でスマートに成功することだけが人生ではない。敗北感や挫折、相対化される経験を通して得られるしなやかさもまた、大きな財産だ。
親が子どもに背負わせがちなもの
親というのは厄介で、自分の果たせなかったことを、つい子どもに重ねてしまう。
自分が行けなかった学校。自分が届かなかった大学。自分が掴めなかった評価。そういうものを、無意識のうちに子どもに託したくなる気持ちはあると思う。
それはある意味では自然な親心なのかもしれない。
だが、そこで一度立ち止まらないといけない。
子どもの人生は、親の未完了の夢を回収するための装置ではない。
進学校に入った瞬間から、東大だ、医学部だ、その先のエリートコースだと勝手に期待を上乗せしていくのは、やはり違うと思う。
周囲がそうだから、祖父母が喜ぶから、世間的に分かりやすいから。そんな理由で子どもの進路を狭めてしまうのは、もったいない。
本当に目指してほしいゴールは何か
では、親として子どもに何を願うのか。
私は、東大でも医学部でもないと思っている。
もちろん、本人が本気で目指すなら応援すればいい。高い目標を持つこと自体は悪いことではない。
でも、それを親が先回りして人生のゴールに設定してしまうのは違う。
本当に目指してほしいのは、自分の内側から湧いてくる好奇心を持ち、自分で自分の人生を選び取れる人間になることだ。
何に没頭するのか。どこで努力するのか。どこで休むのか。何を幸福と感じるのか。
そういうことを自分で考え、自分の責任で選べるようになることのほうが、よほど大事だと思う。
社会に出てから、自分なりのライフワークを見つけること。人類の発展に少しでも貢献できるような仕事や役割に出会うこと。あるいは、そこまで大きな話でなくても、自分と家族の幸せをちゃんとつかみ取れること。
そちらのほうが、はるかに本質的なゴールだ。
校門前のビラを見て、親の軸を確認した
入学説明会の校門前で配られていた大量のビラは、単なる塾の宣伝ではなかった。
あれは、超進学校に入っても競争は終わらないという現実であり、親の不安がそのまま市場になる構造の象徴でもあった。
だからこそ、親には軸がいるのだと思う。
周囲がどう動くかではなく、自分たちは何を大事にするのか。何のためにこの環境を選んだのか。子どもに何を得てほしいのか。
そこが曖昧なままだと、学校選びも、塾選びも、進路選びも、全部が不安ベースになってしまう。
うちはどうするか。正直、まだ分からない部分もある。必要になれば塾を使うかもしれないし、学校の授業を信じて進むかもしれない。
ただ一つはっきりしているのは、東大に行くことを人生のゴールにはしたくないということだ。
まずは新しい環境で、多様でおもしろい同級生たちと出会い、学校生活そのものを楽しんでほしい。勉強だけでなく、スポーツも、友達づきあいも、趣味も含めて、心身ともに豊かに成長してほしい。
しばらくは、「次の受験」のことばかり考えなくていい。
目の前にある新しい世界を、思い切り味わってほしい。
校門前のビラを横目に見ながら、親としてそんなことを強く思った一日だった。



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